時間の捉え方・考え方
こんにちは♪ たかねこです。
みんなが大切だといい、そして多くの人が「ナイ!」というもの。
それはお金と時間です。
この2つの概念について、けっこう長いこと考え続けてきました。
お金についてはまだコレだ!というものが言葉として掴めていません。
もう少し探究が必要です。
今回は時間について、思うところを書いていこうと思います。
早くしなさい。
時間の無駄使いだ。
時間がない。
そんな言葉を散々耳に入れてきたせいか、子どものころから”時間”というものは総量が決まっていて、砂時計の砂のように少しずつ減っていくものだと思い込んでいました。
生まれた瞬間にトンッと砂時計が用意されて「はい、これがあなたの一生分の時間です。大事に使うように。」と誰かにあてがわれたような感じ、とでもいいましょうか。
大人になって仕事をするようになると、今度は「合理化、効率化」を言い渡され、砂時計の小さな一粒ひとつぶにいかに沢山のタスクを詰め込むかに躍起になっていました。
”逆算思考”という言葉が、さらに追い打ちをかけていたように思います。
○月○日までに△△という結果を得るために、あーしてこーして…
あー時間が足りない、どうしましょう(;´д`)トホホ…
合理的で効率的に物事を進めるのが大好き!
逆算思考で目標を達成していくのがワクワクする!
そういう方はそれでいいと思います。
私のようにそれが合わない人は、時間に対して違った考え方をしてもいいのではないでしょうか。
きっかけは、2年前に読んだミヒャエル・エンデの『モモ』という児童書です。
ますます長くなるので、内容については省きます。
とにかく、時間とは砂時計の砂のように落ちて無くなるものではないのかもしれない。
とりあえず、そう仮定しました。
不思議なもので、一つでも自分の心が”快”になる考えかたに変えると、今まで当たり前に信じてきたことがオセロのように次々とひっくり返っていきます。
人は”今”しか生きられない、それが大前提にある。
だとすれば時間というのは、今、今、今、今、今の積み重ねで、人生の時間の総量は積み上げ方式と考えてよいのではないか。
これまで不確定な未来のために”今”を我慢して生きてきたのは、それこそ時間の無駄だったのでは?
いや、無駄と思ったものの、結局はこのことに気づくために積み上げる必要があった時間だった。
いろんな色や形や味の時間を積み重ねて、最終的に体が朽ちるときに「私の時間を合計したら、こんな風になりました~」と結果が出る。
そうすると無駄な時間というのは存在しなくなる。
私にとっての時間の概念はそれでいい。
今はこれがしっくりきます。
”今”という時間は必ずここにあるのです。
それをどんな気持ちで過ごすのか。
それでしかありません。
誰かが遅刻していて待たされている。
イライラしながら待つのも、何かあったのかと心配して待つのも、とりあえず読書を楽しむのも、今という時間の積み重ね方です。
遅刻しそうな移動中。
どんなに怒られるだろうかと焦るのも、お相手と合流した後の楽しい展開を想像するのも、うまい言い訳を考えるのも、今という時間の味わい方です。
イスラム教徒の人が遅刻したときには「アラー(神)の思し召し(だから自分ではどうしようもなかった)」と言い訳するとか。
それを初めて聞いたときはまだ会社員だったので、絶対にない!あり得ない!と思っていました。
沖縄時間もそうですが、今となっては、そういうのんびりした時間の感覚っていいなぁと(^^)
逆にいくら仕事の用で待たせてしまったとしても、人の時間を時給換算して語るのは大嫌いです。
今度私が遅刻したときには「インシャーアラー(神の思し召し)」と言いながら現れようかと思います。
今日のお絵描き
Byみーちゃん
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました(*^^*)